J.D.サリンジャーの代表作で原題は The Catcher in the Rye、1951年にLittle, Brown and Companyから発表されました。日本語の翻訳は橋本福夫「危険な年齢」(ダヴィッド社、1952 )、野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」(白水uブックス、1984)、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社、2003)とありますが、野崎訳と村上訳が歴史的な名訳として並存しているように思います。70年近く昔の小説ですが、いまだに世界中の多くの読者に支持されています。
私も、影響を受けた本を3冊挙げるなら、躊躇なくこのThe Catcher in the Ryeを上げます。
次がスコット・フィッツジェラルドのThe Great Gatsbyで、偶然2冊とも舞台はニューヨークです。この2冊がダントツで、3冊目は難しいかな。
トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」Breakfast at Tiffany’s や「冷血」In Cold Blood もいいですが、やはりコナン・ドイルの「緋色の研究」A Study in Scarlet でしょうね。第2部冒頭のアルカリ平原の描写は、ユタの砂漠地帯を一度でも旅行すれば実感できます。シャーロック・ホームズのシリーズなら「バスカヴィル家の犬」The Hound of the Baskervillesの方が良いという方が多いのでしょうが、私はソルトレークシティを訪問した思い出もあって緋色の研究の方が好きです。
サリンジャーにとって、The Catcher in the Ryeの主人公ホールデ ン少年は自己投影なのかもしれません。
この小説は、事件らしい事件は起きません。ただホールデン少年がクリスマスにペンシルヴァニア州の全寮制のペンシー高校を退学になり、マンハッタンの自宅に戻り、自然史博物館やメトロポリタン美術館、セントラルパークでアヒルを見て、前の高校の恩師だったアントリーニ先生を訪ね、妹のフィービーと会話するだけのお話です。もちろんそれだけでCLASSICな価値を普遍的に認められる文学になり得るはずはありません。人々の気持ちを捉えて離さない魅力があるのです。この魅力は、最後まで読んでみないとわからないと思います。そして、できれば原典を読むことです。
この作品の魅力は、私はホールデン少年の話し言葉とその思考に対する読者の共感だと思います。
原文の英語は、多分ものすごく早口で話されるのでしょう。それも若者の話す英語のように子音を強調して音読して見ると良さがわかります。野崎訳は完全にスタンダードとなっています。名訳と言われるのもわかります。
一方で村上訳は、一見すると漢字をあまり使っていないように思います。話し言葉のリズムがとても快活で、音読したくなります。村上春樹の文学というべき世界が翻訳でも構築されていて、翻訳者の筆の運びの速さ、軽快さが伝わってきます。
出典は失念しましたが、村上春樹氏がどこかで好きな小説としてキャッチャー・イン・ザ・ライ、グレートギャツビー、白鯨の3つをあげていたはずです(ニューヨークが舞台の、という前提だったかもしれません)。もちろん自分で翻訳するはるか以前のお話で、先に上げたとおり私自身もそのうち2つが一致していて、とてもうれしかった記憶があります。
ここで、作中に「キャチャー・イン・ザ・ライ」という言葉が出てくる唯一の部分を比べてみましょう。
I wasn’t listening, though. I was thinking about something else — something crazy. “You know what i’d like to be?” I said. “You know what I’d like to be? I mean if I had my goddam choice?”
“What? Stop swearing.”
“You know that song ‘If a body catch a body comin’ through the rye’? I’d like –“
“It’s ‘If a body meet a body coming through the rye’!” old Phoebe said. “It’s a poem. By Robert Burns.”
“I know it’s a poem by Robert Burns.”
She was right, though. It is “If a body meet a body coming through the rye.” I didn’t know it then, though.
“I thought it was ‘If a body catch a body,'” I said. “Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around — nobody big, I mean — except me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff — I mean if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out from somewhere and catch them. That’s all I’d do all day. I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy. but that’s the only thing I’d really like to be. I know it’s crazy.”
Old Phoebe didn’t say anything for a long time. Then, when she said something, all she said was, “Daddy’s going to kill you.”
The Catcher in the Rye J. D. Salinger Little, Brown and Company
最初に、1984年の野崎孝の翻訳を引用します。
しかし、僕は耳をかしてなかった。僕は別のことを考えてたんだ。−別の馬鹿げたことを。「僕が何になりたいか教えてやろうか?」と僕は言った。「僕が何になりたいか言ってやろうかな? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ」
「なんになりたいの? ばち当たりな言葉はよしてよ」
「君、あの歌知ってるだろう『ライ麦畑でつかまえて』っていうの。僕のなりたい−」
「それは『ライ麦畑で会うならば』っていうのよ!」とフィービーは言った。「あれは詩なのよ。ロバート・バーンズの」
「それは知ってるさ。ロバート・バーンズの詩だということは」
それにしても、彼女の言う通りなんだ。「ライ麦畑で会うならば」が本当なんだ。ところが僕は、その時はまだ知らなかったんだよ。
「僕は『つかまえて』だと思ってた」と僕は言った。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。−−誰もって大人はだよ−−僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ−−つまり、子供達は走ってるときにどこを通ってるなんか見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
フィービーは長いことなんにも言わなかった。が、やがて何か言ったと思ったら、それが「パパに殺されるわよ」と、それしか言わないんだな。
ライ麦でつかまえて J. D. Salinger(原作) 野崎孝(翻訳) 白水Uブックス
次に2006年の村上春樹の翻訳を引用します。
でもそんなことは耳に入らなかった。僕はずっとほかのことを考えていた。すごいへんてこなことを。「僕が何になりたいかってことだけどさ」と僕は言った。「いったいどんなものになりがっていると思う?もちろん僕にクソかミソみたい選択ができればってことだけどさ」
「なあに? 汚い言葉は使わないでって言ったよね?」
「あの唄は知ってるだろう。『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』っていうやつ。僕はつまりね−−」
「『誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら』っていうのよ!」とフィービーは言った。「それは詩よ。ロバート・バーンズの」
「それくらい知ってるさ。ロバート・バーンズの詩だ」
たしかにフィービーの言ったことが正しい。本当は「誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら」なんだ。でもそのときは知らなかった。
「てっきり『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』だと思ってたよ」と僕は言った。「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷち立っているわけさ。で僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」
フィービーは長いあいだ何も言わなかった。そのあとで口をきいたけど、彼女の言うことといえば、「お父さんに殺されるんだから」、そればかりだった。
キャッチャー・イン・ザ・ライ J. D. Salinger(原作) 村上春樹(翻訳) 白水社
英文のリズム、語彙の平板な響き、どれも胸に深く染み渡ります。
翻訳もそれぞれに原作の持つ良さを存分に引き出していますが、原作とは別の確固たる文学作品として、価値を確立しています。
サリンジャーについては、また改めて触れてみたいと思います。
Amazon(野崎訳) Amazon(村上訳)